流れ雲

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「本当に感動したときの言葉」

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明日という日はミステリー、
今日という日はプレゼント(贈り物)


「本当に感動したときの言葉」
「ありがとう、ありがとう」


一人のお母さんから、とても大切なことを
教えられました。  
そのお宅の最初に生まれた男の子は、高熱を出し、
知的障害を起こしてしまいました。
次に生まれた弟が二歳のときです。  
ようやく口がきけるようになったその弟が
お兄ちゃんに向かって、こう言いました。
「お兄ちゃんなんてバカじゃないか」
お母さんは、はっとしました。
それだけは言ってほしくなかった言葉だったからです。
そのとき、お母さんは、いったんは
弟を叱ろうと考えましたが、思いなおしました。  
弟にお兄ちゃんをいたわる気持ちが芽生え、育ってくるまで、
長い時間がかかるだろうけど、それまで待ってみよう。
その日から、お母さんは、弟が兄に向かって言った言葉を、
自分が耳にした限り、毎日克明にノートにつけていきました。  
そして一年たち、二年たち・・・
しかし、相変わらず弟は、
「お兄ちゃんのバカ」としか言いません。  
お母さんはなんべんも諦めかけ、
叱って、無理やり弟の態度を改めさせようとしました。
しかし、もう少し、もう少し・・・と、
根気よくノートをつけ続けました。
弟が幼稚園に入った年の七夕の日、
偶然、近所の子どもや親戚の人たちが家に集まりました。
人があまりたくさん来たために興奮したのか、
お兄ちゃんがみんなの頭をボカボカとぶちはじめました。
みんなは 「やめなさい」 と言いたかったのですが、
そういう子であることを知っていましたから、
言い出しかねていました。  
そのとき、弟が飛び出してきて、
お兄ちゃんに向かって言いました。  
「お兄ちゃん、ぶつならぼくだけぶってちょうだい。
ぼく、痛いって言わないよ」  
お母さんは長いこと、その言葉を待っていました。
その晩、お母さんはノートに書きました。  
「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・」  
ほとんど無意識のうちに、ノートの終わりのページまで
鉛筆でぎっしり、「ありがとう」を書き連ねました。
本当に感動したときの言葉は、こういうものでした。

やがて弟は小学校に入学しました。
入学式の日、教室で初めて席が決められました。
ところが弟の隣に、小児マヒで左腕が不自由な子が座りました。  
お母さんの心は動揺しました。
家ではお兄ちゃん、学校ではこの友だちでは、
幼い子に精神的負担が大きすぎるのではないかと
思ったからです。
その夜、ご主人と朝まで相談しました。
家を引っ越そうか、弟を転校させようかとまで考えたそうです。  
結局、しばらく様子を見てから決めようということになりました。
学校で最初の体育の様子を見てから
決めようということになりました。  
学校で最初の体育の時間のことです。
受持ちの先生は、手の不自由な子が
体操着に着替えるのを放っておきました。
手伝うのは簡単ですが、それより、
一人でやらせたほうがその子のためになると考えたからです。
その子は生まれて初めて、
やっと右手だけで体操着に着替えましたが、
そのとき、体育の時間はすでに三十分も過ぎていました。  
二度目の体育の時間のときも、
先生は放っておきました。すると、
この前は三十分もかかったのに、
この日はわずかな休み時間のあいだにちゃんと着替えて、
校庭にみんなと一緒に並んでいたのです。
どうしたのかなと思い、次の体育の時間の前、
先生は柱の陰からそっと、
その子の様子をうかがいました。  
すると、どうでしょう。前の時間が終わるや、
あの弟が、まず自分の服を大急ぎで着替えてから、
手の不自由な隣の席の子の着替えを手伝いはじめたのです。  
手が動かない子に体操着の袖を通してやるのは、
お母さんでもけっこうむずかしいものです。
それを、小学校に入ったばかりの子が
一生懸命手伝ってやって、
二人ともちゃんと着替えてから、
そろって校庭に駆け出していったのです。
そのとき、先生は、よほどこの弟を
ほめてやろうと思いましたが、ほめたら、
「先生からほめられたからやるんだ」というようになり、
かえって自発性をこわす結果になると考え、
心を鬼にして黙っていました。  
それからもずっと、手の不自由な子が
体育の時間に遅れたことはありませんでした。
そして、偶然ながら、また七夕の日の出来事です。
授業参観をかねた初めての父母会が開かれました。  
それより前、先生は子どもたちに、
短冊に願いごとを書かせ、
教室に持ち込んだ笹に下げさせておきました。
それを、お母さんが集まったところで、
先生は一枚一枚、読んでいきました。
「おもちゃがほしい」「おこづかいをもっとほしい」
「じてんしゃをかってほしい」・・・。  
そんないかにも子どもらしい願いごとが続きます。
それを先生はずっと読んでいくうちに、
こんな言葉に出会いました。
「かみさま、ぼくのとなりの子のうでを、
はやくなおしてあげてくださいね」  
言うまでもなく、あの弟が書いたものでした。
先生はその一途な願いごとを読むと、
もう我慢ができなくなって、体育の時間のことを、
お母さんたちに話して聞かせました。
小児マヒの子のお母さんは、
我が子が教室でどんなに不自由しているだろうと思うと
気がひけて、教室に入ることもできず、
廊下からそっとなかの様子をうかがっていました。  
しかし、先生のその話を聞いたとたん、
廊下から教室に飛び込んできて、
床に座り込み、この弟の首にしがみつき、
涙を流し、頬ずりしながら絶叫しました。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・・・」  
その声がいつまでも学校中に響きました。

鈴木 健二 著 講談社文庫より




悲しい酒「ギター古賀政男
作詞:石本美由起・作曲:古賀政男

ひとり酒場で 飲む酒は
別れ涙の 味がする
飲んで棄てたい 面影が
飲めばグラスに また浮かぶ

「ああ 別れた あとの心残りよ
未練なのね あの人の面影
淋しさを忘れるために
飲んでいるのに
酒は今夜も私を悲しくさせる
酒よどうして どうして
あの人を
あきらめたらいいの
あきらめたらいいの」





「ドイツ人に敬愛された医師」

第二次世界大戦終結後のドイツでは
最悪の衛生環境のため伝染病が蔓延していた。
貧困と不衛生の中チフスが大流行して
毎日多くの人がバタバタと死んで行った。
そんな東ドイツのリーツェンという町で
発疹チフスの治療のため献身的な医療活動をして
多くのドイツ人の命を救った日本人医師がいた。
その医師の名は肥沼信次。
伝染病医療センターが開設されましたが、
町の医者はみな戦争に駆り出され一人も残っていなかった。
肥沼医師は伝染病医療センターの所長に任命された。
センターの医師は肥沼一人。
赤十字から派遣された助手が一人、
看護婦7人、調理師3人で患者に対応した。
チフスは大流行して看護婦のうち5人はチフスで亡くなった。  
ベッドも充分ではなくクスリも僅かしかなく、
殆どなにもない状態で彼は
ドイツの人達を親身になって黙々と治療した。
交通の便が悪い状態の時にベルリンにクスリを求めて走り、
患者のために食料を求めてバルト海沿岸に奔走した。
看護婦がしり込みする、汚い・臭い不衛生な所へ、
彼は平気で往診に出向き懸命に治療に当たった。
多くのドイツ人が彼の治療によって命を救われた。
一人でも多くの人を救いたいと不眠不休の日が続きました。
そして治療にあたって半年目、
肥沼医師もチフスに感染した。
患者のことを考えて自身には無防備だった。
彼はチフスにかかると自室に閉じこもり
看護婦たちに患者の治療を指示し
誰にも彼がチフスに罹ったことを知らせなかった。
彼はチフスの治療薬や注射を自分自身で使うことを拒否した。
「クスリは他の人に使ってくれ」と
看護婦たちを励まし1946年3月8日に亡くなった。
彼の治療で助かった人は実に多く、
人々は肥沼医師に非常に感謝しその恩を忘れずにいた。
「自分の命と引き換えに私たちドイツ人を助けてくれた
日本人・肥沼信次」と人々は賞賛、感謝した。
冷戦の東ドイツ時代は秘密警察の問題もあり肥沼医師のことを
公に賞賛することは出来なかったが、
その墓は病院関係者や村民によって
ずっと大切にひっそりと守られていた。
1994年7月リーツェン市議会は肥沼医師を
リーツェン名誉市民に選んだ。
市庁舎の正面玄関の壁には彼の功績を讃える
「記念銘板」が飾られた。
肥沼医師のことが日本で初めて知られたのは
一つの新聞記事がキッカケだった。
立教大学の村田教授がドイツの郷土博物館から
肥沼医師の親族探しを依頼された。
朝日新聞「マリオンの尋ね人」(1989年)に
「日本人・医師・故コエヌマ・ノブツグを
ご存知の方はいませんか?」
肥沼医師の弟・栄治さんは兄の信次さんの消息を
懸命に探しており、
この新聞記事で兄の消息を初めて知った。
栄治さんは1994年リーツェンを訪問し市庁舎の
「肥沼信次博士記念式典」に出席、
栄治さんがリーツェン市の送った桜の苗木100本が
成長したときに一つの通りを「肥沼通り」と名づけると
議会で議決された。
肥沼医師は「日本の桜は大変きれいです。
みんなに見せてあげたいな」とよく話していたそうです。
肥沼医師は1937年、日本政府から派遣され
ベルリンで放射線の研究に従事していた。
1945年帰国指示を受けたが彼はドイツに滞在して
医療活動にあたり37歳の若さで亡くなりましたが
地元の小学校の教科書にも取上げられ
今なお肥沼医師はリーツェンの多くの人々の
心の中に生きています。
ブランデンブルク州の地方紙の記者、
ロルフ・リンクリンは言う「後に続く世代もまた、
肥沼博士のことを忘れずにいて欲しい。
博士のような人間は物質至上のこの世の中には
あまりいないのだから、とても僅かしか・・・」と。

参考「ドイツ人に敬愛された医師・
肥沼信次」端雲舎より


幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない