流れ雲

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稲むらの火』・
とっさの判断で津波から村人を救った実話


スマトラ沖地震津波のために多くの人命が失われた。
安政元年(1854年)紀州の広村(現在の和歌山県広川町)を
地震で大津波が襲った。
当時、広村に浜口儀兵衛という大商人が住んでいた。
秋の夕暮れどきのことだった。
海を見ていた儀兵衛は異変にきづいた。
波が沖へ沖へと動き海岸に砂浜が現れた。
津波が襲ってくる!  儀兵衛は高台にある自宅の
取り入れたばかりの稲むらに火を放ち村人の命を救った……


小泉八雲ラフカディオ・ハーン)はこの話を題材に
1897年ボストンとロンドンで出版した
「仏の畠の落穂」の中の「生ける神」の章で
儀兵衛の話を紹介した。また
稲むらの火」の物語は昭和12年から昭和22年まで
小学5年の国語の教科書に掲載された。  
小泉八雲が紹介した「A living God(生ける神)」は
次のような物語です。


ある秋の夕刻、浜口五兵衛は高台にある彼の屋敷の窓から
下の村を見下ろしていた。村では 
豊年を祝う祭りの準備でみんな忙しく働いていた。
村の通りには祭りの幟がはためき、
沢山のちょうちんが吊るされているのが見えた。  
五兵衛の家族は祭りの準備に出掛け、
家にいたのは五兵衛と10歳の孫の二人だけだった。
五兵衛は弱い地震を感じた。
長くゆったりとした揺れ方と腹に響くような地鳴りは、
年老いた五兵衛には今まで経験したことのない
不気味なものだった。
五兵衛は高台にある自分の庭から心配そうに
下の村を見下ろした。
祭りの仕度に気を取られているのか村人は
さきの地震のは一向に気がつかない様子だ。
ふと海に目をやった五兵衛は思わず息を飲み込んだ。
大波が風に逆らって沖へ沖へと動いて行く。
みるみる海辺には見えなかった
黒い砂原や岩底が現れてきた。
「大変だ。津波がやってくるに違いない。
このままでは400人の村人が一飲みにされてしまう」
急いで家に駆け込んだ五兵衛は孫のただに向かって叫んだ。
"ただ、松明に火をつけろ! 早く、早く 
!"孫のただは急いで松明に火をつけ五兵衛に渡した。
五兵衛は松明を持って家から飛び出した。  
そこには取り入れたばかりの稲の束が積んであった。
農民にとって稲束(稲叢・稲むら)は
命の次に大切なものであった。
「もったいないが、これで村中の命が救えるんだ」と
五兵衛はいきなり、稲束の一つに火をつけた。
孫のただは驚いて『お爺さん、何してるの、
どうしたの!』と五兵衛の後を追って叫んだ。  
五兵衛は何も答えず、
一つ、またひとつと稲むらに
次々と火をつけて夢中で走った。
自分で刈り取った全ての稲むらに火をつけて、
五兵衛は気を失ったように突っ立ったまま、
沖を眺めていた。 日は既に没して、
あたりはだんだん薄暗くなってきた。
次々に燃える稲むらは天を焦がした。
 この火を見て山寺では、早鐘をつき始めた。
「火事だ。庄屋さんの家が火事だ」  
村の若者が急いで高台へ向かって駆け出した。
つづいて、老人も女も、子供も、
若者の後を追って駆け出した。
高台の上から見下ろす五兵衛には、それが、
蟻の歩みのように遅くもどかしく思えた。
やっと、20人ばかりの若者が駆け上がってきた。
彼らはすぐに火を消しかかろうとした。
孫のただは『お爺さんは気が狂った!
稲むらに火をつけた』と村人に告げた。
五兵衛は大声で言った。「火を消してはならぬ。
村中の皆に少しでも早く、ここへ来てもらうんや」  
村の人々は次々に集まって来た。
五兵衛は、あとから、あとから駆け上がって来る
村人を一人ひとり数えた。
村人達は命がけで育てた稲が燃えているのと、
これまでにない厳しい目をした五兵衛の表情を
不思議そうに眺めた。
その時、五兵衛は力いっぱいに叫んだ
「見ろ。やって来たぞ」
皆はたそがれの薄明かりをすかして、
五兵衛の指さす方を見た。
暗い海の彼方にかすかに白い一筋の線が見えた。
その線はみるみる太くなり広くなった。
非常な速さで一気に海岸へ押し寄せて来た。
津波だ!」と誰かが叫んだ。
海水が絶壁のように盛り上がって迫って来て、
まるで山がのしかかって来たようで、
百雷が一時に落ちたような轟で陸にぶつかった。
人々は我を忘れて後ろへ飛びのいた。  
雲のように水煙が高台に降りかかり、
一時は何も見えなくなった。  
村人は波にえぐり取られ跡形もなくなった村を、
ただただ呆然と見下ろすばかりだった。
五兵衛は言った「わしが稲むらに
火をつけたわけがわかっただろう」。
孫のただは五兵衛のとこへ走りより手をとって
「お爺さん、ごめんなさい、お爺さんのことが
気が狂ったなどと言って」と謝るのだった。
収まりかけていた稲むらの火は、
風にあおられてまた燃え上がり、
夕闇に包まれたあたりを明るく照らした。
初めて我にかえった村人は、
自分達がこの稲むらの火のお陰で
津波から命を救われたことに気づくと、
無言のまま五兵衛の前にひざまづいた。

小泉八雲の「A Living God」では主人公の名前は
浜口五兵衛となっているが浜口儀兵衛が本当の名前で、
後に浜口梧陵と名乗った。
ヤマサ醤油の7代目当主、初代郵政大臣。  
浜口儀兵衛は大津波から村人を救ったのち、
その地を永久に津波から守るために、
儀兵衛は私財を投じて全長600M,高さ5Mの大堤防
「広村堤防」を築いた。
この堤防のお陰で昭和21年(1946年)に発生した
南海地震津波から住人を守り抜いた。
稲むらの火」は優れた防災の教材として
各地に使われている。また、「稲むらの火」の物語は
「その時歴史は動いた」でも放映された。

稲むらの火』の後日物語。
明治時代浜口坦という青年がロンドンの
「The Japan Society」という会に招かれ講演した。  
イギリスのケンブリッジ大学で学んだ彼は
流暢な英語を話しました。
講演の質疑応答が終ろうとしていた時、
一人のイギリスの若い婦人が立ち上がりました。
「ここにいらっしゃる皆様の中には
ラフカディオ・ハーン小泉八雲)が書いた
「The Living God」の物語を読んだ方もおられましょう。
私はそれを読んで、津波から村人の命を救った
浜口五兵衛という人の知恵と勇気に深い感動を受けました。
あなたは「浜口」という同じ名前ですが、
浜口五兵衛と何かつながりが、おありでしょうか」
実は浜口坦という人は、五兵衛の息子だったのです。  
思いもかけず、遠いイギリスの地で
父の名前をイギリスの婦人から聞いた坦は、
激しい感動のため胸がふさがり、
一言も発することが出来ませんでした。
司会者が近づいて小声で問いただし、そして、うなづき、
坦に代わって言いました。
「今夜の講師、浜口坦氏こそハーンの物語の主人公、
浜口五兵衛のご子息なのです」
会場の人々は、父親五兵衛の偉業を讃えると共に、
声も出せなかった講師の心情を思いやり、
拍手と歓声で応えました。

参考:A Living God(Lafcadio Heam:小泉八雲
   嵐の中の灯台(明成社)より