流れ雲

繰り返しと積み重ねの過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく、神戸発信

老いた猫 "言葉は話せなくても伝わることがある"

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 歴史・履歴への許可証
his personal history
(人の)履歴,経歴
(事物の)来歴,由来,沿革,
 由緒(ゆいしょ)、いわれ


幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない


老いた猫 "言葉は話せなくても伝わることがある"
学校から帰る途中に様子がおかしい猫をみつけました。
その猫はテ­ラテラと油のような液体で濡れていて
片目から出血しており・・・
動物病院につれていく も中学生じゃ話にならず・・・





昨日という日は歴史、明日という日はミステリー、
今日という日は贈り物、
だからプレゼント(贈り物)と呼ばれる

深見千三郎という人について、ほとんどの人は知らないと思います。
今からおよそ40年前、明治大学工学部4年生の
北野武という学生が、4年生でありながら無謀にも
明治大学を中退し、 浅草六区フランス座に転がり込んで、
師匠として師事したのがほかならぬこの
深見千三郎師匠だったのであります。
ビートたけしという人は、大変運の良い人だと思います。
たとえば、講談社に殴り込みを掛けて監獄に入れられた後、
平気でカムバックできる芸人は、そうはいません。
また、バイクの事故で人相が変わるほどの瀕死の重傷を負って、
その後事故以前を凌駕する 問題意識の高い映画を作れる
映画監督もそうはいません。
しかし、ビートたけしという人の運の良さを
あらわすものは、 明治大学を中退して
何もわからない素人としてふらっとフランス座に入ってきて、
この深見千三郎を師匠にできたというこの偶然の一点にあります。
それほどに、深見千三郎という芸人は、
ビートたけしにとって理想的なお師匠さんだったのであります。
しかし、この深見千三郎さん、浅草の小屋には出演しますが、
テレビには絶対出ません !  
したがって、その顔や芸、まして人となりを
知っている人はあまりいません。
しかし、めったに他人をほめないビートたけし
深見師匠を語る時、その粋を絶賛しています。

以下にビートたけし深見千三郎の粋を
敬愛する文章を引用します。
師匠の深見さんにも、ずいぶんいろんなことを教わった。
「おいタケ、鮨でも喰うか」って鮨屋に行って、
オヤジさんがひとりと、若い衆が二人いれば、
あの当時でひとりに祝儀を一万円渡していた。
師匠と俺の二人で握りを喰っても、一万円するかしないかの時代に、
祝儀は三万円だった。
それも自分じゃ渡さない。
帰りがけに俺に財布を渡して支払いをさせる。
その支払いにもタイミングがあった。
師匠が席を立つ前に渡してしまうと、
鮨屋のオヤジさんは当然「師匠、ご祝儀ありがとうございました」と
礼を言う。 そうすると、怒られる。
「相手にありがとうございましたと言わせるな。
そういうの俺はきらいなんだ。
ちゃんと俺が店を出てから払え」これが師匠の教え。
また、俺が師匠と仲良くなって、
「師匠、鮨屋行きませんか」って誘いをかけても、
首を横に振ることがあった。 「行かねえよ」
「なんでですか」「祝儀代がねえんだよ」
鮨の金がないわけじゃない。祝儀がない。
一万円はあるけど、あと三万円の
持ちあわせがねえんだって言うわけだ。
それでずっとやってきた人だから、
祝儀が払えなきゃ、飯を喰いに行かない人だった。
かっこよかった。
テレビで顔を売るタイプの芸人じゃなかったけれど、
さすが浅草の深見だなあって、そういうことが何回もあった。
自分の一座を持ち、全国を回って興行していた人だから、
もちろん堅気ではあるのだけれど、ヤクザみたいな人でもあった。
なんといえばいいのか、骨っぽいところがちゃんとあって、
そしてとびきりの照れ屋だった。
端から見ても格好のいい、大人の作法を身につけている人は、
だいたい照れ屋だ。
下町に脈々と伝承され続けている
この類の生活態度というものは、
しっかりと後世代に伝えられてきたのであります。
この種の生活態度は山の手育ちの人には伝承されておらず、
下町特有のものらしい。 

 
深見 千三郎(ふかみ せんざぶろう、
1923年3月31日~ 1983年2月2日)は、
北海道浜頓別町出身の
コメディアン、舞台芸人、演出家、脚本家。
本名:久保 七十二(くぼ なそじ)。
ビートたけしの師匠。
姉は浅草の人気芸者で歌手の「美ち奴」(みちやっこ)。


時は絶えず流れ、
  今、微笑む花も、明日には枯れる