流れ雲

繰り返しと積み重ねの過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく、神戸発信

「下座に生きる」 18歳の孤児

pass into history
歴史・履歴への許可証
his personal history
(人の)履歴,経歴
(事物の)来歴,由来,沿革,
 由緒(ゆいしょ)、いわれ


昨日という日は歴史、
明日という日はミステリー、
今日という日はプレゼント(贈り物)





「下座に生きる」■18歳の孤児
京都・山科に一燈園という修養団体がある。
宗教法人ではなく、人間としての生き方を学ぶ
修養団体で、大正10年(1921)
西田天香さんが家々を回り、便所掃除をし、
うかつに生きていることをお詫びして
生活されたことから始まった集まりである。
天香さんの生き方は、当時京都大学その他の学生だった
倉田百三安倍能成、佐古純一郎、
山田無文和辻哲郎などに影響を与え、
昭和の精神史を形作ったといえる。

その天香さんに三上和志さんという高弟がいた。  
ある日、三上さんはある病院に招かれて講話に行った。
ホールには患者さんや看護婦さん、検査技師、
医療事務員などが詰めかけて話を聞いた。
ベッドを離れられない患者はスピーカーを通して聞いた。
涙を誘う話となった。  
1時間ほど話して院長室に戻ると、
院長がいたく感動して、お願いがあるという。
何ですかと聞くと、院長は切りだした。

「実は私の病院に少年院から預かっている
18歳になる結核患者がいます。容態は悪く、
あと10日も持つかという状態です。
この少年に三上先生の話を聞かせてやりたいのです。
ただ問題なのは、両親も身寄りもなく、
非常にひねくれていて、三上先生の話を
素直に聞いてくれるかどうかはわかりません。
重体で病室からは1歩も出られないので、
こちらから出向くしかないのですが、
今日のような話をたとえ20分でも30分でも
聞かせてやりたいのです。
少しでも素直な気持ちになってくれれば・・・・」  
そう聞いて、三上さんは躊躇した。
「ちょっと話をしたぐらいで素直になるでしょうか。
そうは思えませんが」
「確かにそういう懸念はありますが、
仮に素直にならないでも、もともとです」  
そう言われると、断わることもできない。
話をしてみることになった。
では仕度をと言って、
院長は大きなマスクと白い上着を渡した。
「付けなければいけませんか?」
三上さんは躊躇した。  
ひねくれてしまっている少年の心を
動かそうとするものが、白い上着を着て
マスク越しに恐る恐る話をしても通じまい。  
「もしも伝染したらいけませんから。
開放性の伝染病ですから・・・・」 そう言われて、
三上さんは意を決した。
「伝染すると決まっているわけではありませんから、
付けないことにします。
その少年の気持ちを思うと・・・このままの方が
よいと思いますので・・・・」
院長に案内されて行ったところは病院の
一番奥にある隔離病棟で、五つある個室のうち
彼の部屋だけ使われていた。

院長に続いて中に入ると、六畳ほどの広さの部屋に
白木のベッドが一つ、
コンクリート剥き出しの寒々とした床の上に
新聞紙を敷いて、尿器、便器が置いてあり、
入り口には消毒液を満たした洗面器が置かれている。  
げっそり痩せて頬骨が尖り、
不精髭を生やした少年の顔は黄色く淀んでおり、
目のまわりが黒ずんでいる。
黄疸を併発しているのだろうか。
「気分はどうかね」院長が話しかけたが、
少年は顔をそむけたまま返事しない。
「少しは食べているかい?」それでも少年は答えない。
うるさそうにしている。
「眠れるかね?」  
顔をそむけたまま答えようとしない少年の向こう側に回って、
三上さんが顔をのぞいて見ると、
憎憎しげな様子だ。
少年が答えないのをみて、院長は構わず言った。
「こちらにいらっしゃるのは三上先生というて立派な方だ。
私らは向こうでお話を伺って非常に感動した。
お前にも聞かせてやりたいと思い、
一人のためにというのはすまないと思ったけれども
無理にお願いして、来てもらった。
体がきついかもしれないが、
辛抱して聞きなさい。わかったか」
「・・・・・」少年は黙ったままだ。
「三上先生、どうぞ」と言われ、
三上さんは少年の仲間の言葉で話かけた。
「おいどうでぇ!」ところが、
うんともすんとも言わない。三上さんは怒鳴った。
「折角見舞いに来たんじゃねえか。
何とか言えよ!」ところが、
その声が終わるか終わらないかのうちに、
「うるせえ!」という言葉が返ってきた。
こんなに痩せた体のどこから出るかと思われるような
大きな声だった。
院長が小声で「こりゃ、駄目ですな」と言い、
「退散するしかないようです」と付け加えた。  
「そうですね」と三上さんも諦め、
部屋を出がけに「おい!帰るぜ」と怒鳴った。
そして引き手に手を掛け、
もう一度振り返って見た。
すると、意外だった。少年が燃えるような目で、
こちらをじっと見つめていたのだ。
その目にどうしょうもない孤独の影が見えた。
人恋しいのに、その恋しい人が来れば、
本心とは裏腹に顔をそむけてしまう。  
それでいて、その人が去れば、
後を追いかけたくなる。
素直な気持ちを表現できないのだ。
三上さんが向き直ると、少年は慌てて顔をそむけた。
三上さんはベッドのところまで引き返した。
顔を隠そうとする少年の顔を、
伸び上がって後ろから覗いてみると、
涙が頬を伝っていた。寂しい姿だった。  
それを見た途端、三上さんは心を決めた。
今晩はここに泊まって、一晩なりとも看病しようと。
急いで廊下に出て、その旨を院長に言うと、
院長は語気強く言った。
「それはいけません。
開放性の結核ですからうつります」
「でも、わが子ならそうするでしょう。
お願いします」
「とは言っても・・・・しかし・・・」  
迷う院長に三上さんは再度言った。
「うつるかどうか、わかりません。
明日はどうなろうとも、今日一日は
真でありたいと私は思います。
今日一日真であれば、明日死んでも満足です」
そう言いおわると、三上さんは病室に戻った。
院長は追って来なかった。


続く

幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない