流れ雲

繰り返しと積み重ねの過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく、神戸発信

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歴史・履歴への許可証

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明日という日はミステリー、
今日という日はプレゼント(贈り物)




「下座に生きる」初めて呼んだ
 “お父っつあん”


「そうだったのか。そんなことがあったのか。
ごめんよ。思い出させちまって」
卯一は泣き止むと、意を決したように
三上さんを見据えて言った。
「おっさん。笑っちゃいかんぞ」
「何じゃ。笑いはせんぞ。言っちまいな」
「あのなー、一度でいいから、
お父っつぁんと呼んでいいかい」
三上さんは思わず卯一の顔を見た。
この機会を逃すまいと真剣そのものだ。
「ああ、いいよ。わしでよかったら、返事するぞ」
「じゃあ、言うぞ」「いちいち断わるな」
しかし、卯一はお父っつぁんと言いかけて、
激しく咳き込んだ。
身をよじって苦しんで血痰を吐いた。
三上さんは背中をさすって、介抱しながら、
「咳がひどいから止めておけ。
興奮しちゃあ体によくないよ」と言うのだが、
卯一は何とか言おうとする。
すると続けざまに咳をして、死ぬほどに苦しがる。
「なあ卯一。今日は止めておけ。体に悪いよ」
三上さんは泣いた。それほどまでして、
こいつはお父っつぁんと言いたいのか。
悲しい星の下に生まれたんだなあと思うと、
後から後から涙が頬を伝わった。
苦しい息の下からとぎれとぎれに、
とうとう卯一が言った。
「お父っつぁん!」
「おう、ここにいるぞ」
卯一の閉じた瞼から涙がこぼれた。
どれほどこの言葉を言いたかったことか。
それに返事が返ってくる。
卯一はもう一度言った。
「お父っつぁん」
「卯一、何だ。お父っつぁんはここにいるぞ」  
もう駄目だった。大声を上げて卯一は泣いた。
十八年間、この言葉を言いたかったのだ。
わあわあ泣く卯一を、毛布の上から
撫でてさすりながら、三上さんも何度も鼻を拭った。
明け方、とろとろと卯一は寝入った。
三上さんは安らかな卯一の寝顔に満足し、
一睡もせず足をさすり続けた。

「おっさん、昨日、病院の人たちに
話をしたというてたなあ」
白み始めた早朝の薄暗がりの中で、
いつの間に目覚めたのか、卯一が言った。
「ああ」
「おれにも何か話してくれ」
「聞くかい」「うん、聞かせてくれ」  
「今朝は高校へ話にいかにゃならんので、
長い話はできんが・・・・。
卯一、お前は何のために
生まれて来たか知っとるか」
「何じゃ、そんなことか。
男と女がいちゃいちゃしたら、子どもができらあ」  
「そんなんじゃなくて、生まれてきた意味だよ」
「そんなこと、わかるけ。
腹がへった、飯を食うだけさ」  
「飯を食うためだけじゃ、寂しかないか。
それだけじゃないぞ、人生は」
「・・・・・」「誰かの役に立って、
ありがとうと言われたら、うれしいと思うだろう。
あれだよ、あれ。
お前が昨夜から何も食べていないという女の子に、
パンをやったとき、その子はお兄ちゃん、
ありがとうと言っておいしそうに食べたろ。
それを見て、お前もうれしかったろ。
誰かのお役に立てたとき、人はうれしいんだ。
お前、いままで誰かの役に立ったかい」
この質問は酷だった。
何かを考えているようだった
卯一は投げ出すように言った。
「おれは駄目だ」「どうしてだ」
「おれはもうじき死ぬんだよ。命がないんだ。
人の役に立ってって言ったって、
いまさら何ができるんだ」泣顔だ。  
「できる、できる。まだまだできるぞ」
「起き上がることもできないおれに
何ができるというんだ」  
「なあ、卯一。お前、ここの院長先生や
みんなに良くしてもらって死んでいける。
だから、みんなに感謝して死んでいくんだ。
憎まれ口をきくのではなく、
邪魔にならないよう死んでいくんだ。
それがせめてもの恩返しだ」
「おっさん、わかったぞ。
これまでおれは気にいらないことがあると、
『院長の馬鹿野郎、殺せ!』って怒鳴っていた。
これからは止める。言わないことにするよ」  
「そうか。できるかい。努力するんだよ」


「下座に生きる」卯一の最後の頼み

「そのかわり、おっさんもおれの頼みを聞いてくれ」
「約束しよう。何だ、言ってみな」
「おっさん、いま高等学校に行くと言ったな。
中学校や小学校にも行くのか ?」「行くよ」
「そうしたら、子どもたちに言ってくれ。
親は子どもに小言を言うだろうが、反抗するなって。
おれって男が しみじみそう言ってたって」  
「反抗したらいけないのか」
怪訝なことを言うと思って聞き返してみると、
卯一はこう言った。  
「いやな、小言を言ってくれる人があるってのは
うれしいことだよ。
おれみたいに、言ってくれる人が誰もいないってのは
寂しいもんだ。
それに対して文句を言うってのは贅沢だよ」
「なるほど、そういうことか。わかった。
わしは命が続くかぎり、お前が言ったことを言ってまわろう。
お前も上手に死んでいけよ」
そう言って、三上さんは暇乞いをしようとした。
その前に卯一が叫んだ。
「おっさん、手を握らせてくれ」
そう言って、卯一は三上さんの右手をしっかり握った。
冷たい手だった。痩せこけているので、骨があたる。
「それじゃ、これで帰るぞ」
「もう行くのか?」
「行かなきゃならん。高校で話をすることになっている」  
「おっさん!」「何だ」「いや、何でもない」
「何でもなかったら呼ぶな」
「返事するのが悪いんだ。呼んだって返事するな」
「そんなわけにはいかんがな」
三上さんが立ち去ろうとすると、また卯一は呼んだ。  
「おっさん!」「返事せんぞ。
もう行かにゃならんのだ」 そう言って、
後ろ手にドアを閉めると、部屋の中から、
「おっさーん、おっさーん」と
いつまでもいつまでも聞こえていた。


続く

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